清水寺
发布时间:2019-12-19 责任编辑:华夏神镖 信息来源:互联网
清水寺是日本佛教法相宗(北派)的本宗,位于京都市内东山区的清水,占地面积达13万平方米,始建于778年。
清水寺是京都最古老的寺院,曾数次被烧毁并重建,本堂前悬空的清水舞台是日本国宝级文物,四周绿树环抱,春季时樱花烂漫,是京都的赏樱名所之一,秋季时红枫飒爽,又是赏枫胜地。
清水寺的茶艺名列京都之首。
1994年,清水寺被联合国科教文组织列入世界文化遗产名录。
清水寺景点
水寺是京都最古老的寺院,被列为日本国宝建筑之一。
清水寺的由来是公元778年(宝龟9年),从延镇上人在音羽的瀑布上参拜观音而开始的。到了延历17年(798年),坂上田村麻吕改建为佛殿,从此成为恒武天皇的敕愿寺。
清水寺的山号为音羽山,主要供奉千手观音。占地面积为13万平方米,慈恩大师创建。
相传慈恩大师是唐僧玄奘在日本的第一个弟子。现存清水寺为西元1633年由德川家光捐资重修的。原属法相宗,现自立为大本山北法相宗。
清水寺与金阁寺(鹿苑寺),岚山等是京都最为著名的名胜古迹,四季朝拜者不断。
另与石山寺(滋贺县大津市),长谷寺(奈良县樱井市)等自古以来做为日本为数不多的观音灵地而闻名,平安时代以来,经常出现于日本文学作品当中。
1994年,作为古京都文化遗产的一部登录于世界遗产名录上。是西国三十三个所(在关西地区参拜33所观音庙的巡访活动)中第16所寺庙。
清水寺因寺中清水而得名,顺着奥院的石阶而下便是音羽瀑布,清泉一分为三,分别代表长寿,健康,智慧,被视为具有神奇力量,游客路经此地一定会来喝上一口水,据说可预防疾病及灾厄. 相传延镇上人于778年在此开山后,由大将军坡上田村麻吕于798年兴建。
现存的大部分建筑始建于公元1633年,被定为国宝的主堂是由139根立柱支撑的,宛如硕大的舞台,又称“清水舞台”。
本堂的下方有著名的“音羽瀑布”,与祈求分娩顺利的“子安塔”,后者被列为世界文化遗产,清水寺建于音羽山上,为日本佛教北法相宗的总院。寺院周围是京都的名胜古迹,春天樱花盛开,秋天红叶似火。
主要景点
清水寺(Kiyomizu Temple)内有一瀑布,名音羽瀑布,流水清洌,终年不绝,其清泉分为三个部分,据说每个部分都有神奇的力量,分别为长寿、智慧、健康,如果游客经过此地的话一定要喝上一口哦。
该清泉被列为日本十大名泉之首,清水寺的寺名也因此而来。
清水寺正殿供奉著十一面千手观音立像,每年日本清明节时才会对外开放,让游人以及前来祭拜的本地人参观。
清水寺(きよみずでら)は:
京都府京都市東山区清水にある寺院。山号を音羽山。本尊は千手観音、開基(創立者)は延鎮である。もとは法相宗に属したが、現在は独立して北法相宗大本山を名乗る。西国三十三所観音霊場の第16番札所である。
清水寺は法相宗(南都六宗の一)系の寺院で、広隆寺、鞍馬寺とともに、平安京遷都以前からの歴史をもつ、京都では数少ない寺院の1つである。また、石山寺(滋賀県大津市)、長谷寺(奈良県桜井市)などと並び、日本でも有数の観音霊場であり、鹿苑寺(金閣寺)、嵐山などと並ぶ京都市内でも有数の観光地で、季節を問わず多くの参詣者が訪れる。また、修学旅行で多くの学生が訪れる。古都京都の文化財としてユネスコ世界遺産に登録されている。
清水寺の宗旨は、当初は法相宗で、平安時代中期からは真言宗を兼宗していた。明治時代初期に一時真言宗醍醐派に属するが、明治18年(1885年)に法相宗に復す。昭和40年(1965年)に当時の住職大西良慶が北法相宗を立宗して法相宗から独立した。
歴史
創建伝承
清水寺の創建については、『群書類従』所収の藤原明衡撰の『清水寺縁起』、永正17年(1520年)制作の『清水寺縁起絵巻』(東京国立博物館蔵)に見えるほか、『今昔物語集』、『扶桑略記』の延暦17年(798年)記などにも清水寺草創伝承が載せられている。これらによれば、草創縁起は大略次の通りである。
宝亀9年(778年)、大和国興福寺の僧で子島寺で修行していた賢心(後に延鎮と改名)は、夢のお告げで北へ向かい、山城国愛宕郡八坂郷の東山、今の清水寺の地である音羽山に至った。金色の水流を見出した賢心がその源をたどっていくと、そこにはこの山に篭って滝行を行い、千手観音を念じ続けている行叡居士(ぎょうえいこじ)という白衣の修行者がいた。年齢200歳になるという行叡居士は賢心に「私はあなたが来るのを長年待っていた。自分はこれから東国へ旅立つので、後を頼む」と言い残し、去っていった。行叡は観音の化身であったと悟った賢心は、行叡が残していった霊木に千手観音像を刻み、行叡の旧庵に安置した。これが清水寺の始まりであるという。
その2年後の宝亀11年(780年)、鹿を捕えようとして音羽山に入り込んだ坂上田村麻呂(758年-811年)は、修行中の賢心に出会った。田村麻呂は妻の高子の病気平癒のため、薬になる鹿の生き血を求めてこの山に来たのであるが、延鎮より殺生の罪を説かれ、観音に帰依して観音像を祀るために自邸を本堂として寄進したという。後に征夷大将軍となり、東国の蝦夷平定を命じられた田村麻呂は、若武者と老僧(観音の使者である毘沙門天と地蔵菩薩の化身)の加勢を得て戦いに勝利し、無事に都に帰ることができた。延暦17年(798年)、田村麻呂は延鎮(もとの賢心)と協力して本堂を大規模に改築し、観音像の脇侍として地蔵菩薩と毘沙門天の像を造り、ともに祀った、という。以上の縁起により、清水寺では行叡を元祖、延鎮を開山、田村麻呂を本願と位置づけている。
平安時代以降
延暦24年(805年)には太政官符により坂上田村麻呂が寺地を賜り、弘仁元年(810年)には嵯峨天皇の勅許を得て公認の寺院となり、「北観音寺」の寺号を賜ったとされる。『枕草子』は「さわがしきもの」の例として清水観音の縁日を挙げ、『源氏物語』「夕顔」の巻や『今昔物語集』にも清水観音への言及があるなど、平安時代中期には観音霊場として著名であったことがわかる。
清水寺の伽藍は康平6年(1063年)の火災(扶桑略記に言及)以来、近世の寛永6年(1629年)の焼失まで、記録に残るだけで9回の焼失を繰り返している。平安時代以来長らく興福寺の支配下にあったことから、興福寺と延暦寺のいわゆる「南都北嶺」の争いにもたびたび巻き込まれ、永万元年(1165年)には延暦寺の僧兵の乱入によって焼亡している。文明元年(1469年)には応仁の乱の兵火によって焼失し、その再建のために時宗僧の勧進聖願阿弥が迎え入れられた。願阿弥は清水寺入寺以前に橋や寺堂の再建、救恤といった事業に従事しており、その際に率いていた勧進集団や要人との人脈をもって再興事業に臨んだ。願阿弥自身は再興の完遂を見届けることなく世を去ったが、願阿弥の率いた勧進集団は寺内に地歩を築き、本願成就院として近世にいたる本願の出発点となった。現在の本堂は上記寛永6年の火災の後、寛永10年(1633年)、徳川家光の寄進により再建されたものである。他の諸堂も多くはこの前後に再建されている。
三職六坊
豊臣秀吉は清水寺に130石の寺領を安堵し、徳川幕府になってもこの寺領が継承された。近世の清水寺は「三職六坊」と呼ばれる組織によって維持運営されていた。「三職」とは寺主に当たる「執行」、副寺主に当たる「目代」、寺の維持管理や門前町の支配などを担当する「本願」を指し、執行職は宝性院、目代職は慈心院、本願職は成就院がそれぞれ務めた。「六坊」はこれに次ぐ寺格を有するもので、義乗院、延命院、真乗院、智文院、光乗院、円養院の6か院である。このうち、宝性院は仁王門北方に現存する。慈心院は本堂のみが随求堂(ずいぐどう)として残っている。成就院は近代の中興の祖である大西良慶(後述)が住坊とした所で、境内北側に位置し、現在は清水寺本坊となっている。「六坊」の6か院はいずれも境内南方にまとまって所在したが、このうち真乗院は織田信長によって廃絶され、以後は成就院によって寺籍のみが継がれていた。義乗院、智文院、光乗院、円養院も廃仏毀釈の時期に廃絶し、現在は延命院が残るのみである。
近代
近代に入り、大正3年(1914年)には興福寺住職?法相宗管長であった大西良慶(1875年-1983年)が清水寺の貫主(住職)に就任する。大西は昭和40年(1965年)に法相宗から独立して北法相宗を開宗、初代管長となった。大西は昭和58年(1983年)、満107歳で没するまで70年近く清水寺貫主を務め、「中興の祖」と位置づけられている。大西は昭和41年(1966年)に月2回の北法相宗仏教文化講座を開始、昭和49年(1974年)には日中友好仏教協会を設立するなど、仏教を通じた国際交流、平和運動、文化活動などに尽力した。現貫主は、森清範が務めている。
2015年には、10年かけて制作された絵巻物「清水寺平成縁起絵巻」が完成し、奉納された。寺の草創期から「平成の大改修」の完了までの1200年を描いた全9巻で、全長65m。作画は日本画家で京都嵯峨芸術大学名誉教授の箱崎睦昌。絵絹や裏彩色といった伝統技法を復活させて描かれた。戦火が多く描かれた室町時代の『清水寺縁起絵巻』とは異なり、何度も焼失と再建を繰り返した清水寺を支えた庶民の姿をテーマに描かれた。