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浅草寺

发布时间:2019-12-20   责任编辑:华夏神镖   信息来源:互联网
  浅草寺位于东京都台东区浅草二丁目,是东京都内最古老的寺院。山号是金龙山。正尊是圣观音菩萨。原本所属天台宗,在第二次世界大战之后独立出来,成为圣观音宗的总本山。因为本尊是观音菩萨,被称之为“浅草观音”或是“浅草的观音神”,广受人们的爱戴。浅草寺是东京都内唯一的坂东三十三所观音灵场的名刹(第13处)、也是江户三十三所观音灵场名刹之一(第1处)。
  年中活动:新年祈祷大会。修正会。牛玉加持会。温座秘法陀罗尼会。节分日。针供养会。本尊显灵会。仏生会。杨枝净水加持会。四万六千日(功德日)。万灵灯笼供养会。菊花供养会。佛经手抄本供养会。年终观音缘日。浅草寺寺舞。 
  


  雷门(风雷神门)
  西元942年,是由武將平公雅所创建,本是建于浅草南方的驹形之位,直至镰仓時代(1192–1333)才移筑于现在的位置。而为了配合建筑改建,风神和雷神的神像便被安置于这座门的两侧。
  随着浅草寺成为人们祈祷免于洪水、火灾等自然灾害的信仰中心以來,这两尊像也渐渐地成为人們祈求世界和平及农作物丰收等愿望的心灵寄托。
  雷門曾于1865年12月被大火烧毁,并在95个漫长的年岁间消失踪影。直到1960年,在Panasonic、也就是松下电器这个众所周知的电器品牌创办人松下幸之助的捐献赞助下,得以重建了并成为当今的造形。直至今日,雷門依旧以著堂伟岸的姿态,成为浅草寺的地标,更进而成为浅草的象徵,闻名遍及于全日本。 


  
  宝藏门
  据描述浅草寺草创時期的唯一资料《应永缘起》(大约写于15、6世纪的书籍)记载,宝藏门(建造当初称为仁王门)是由武将平公雅于西元942年所创建。他为了祈愿能成为管辖武藏国(现在的东京都及其周边区域)的官员,而赴浅草寺祈愿,而在得以成就宿愿之后,他便建造此门用以还愿。
  完成后,虽然几遭祝融之火,卻也都能一再获得重建。于12世紀末到17世纪初之间,此门的外貌并沒有太大变化,直到江户幕府的第三代将军德川家光時代,才为了配合本堂而对此门进行改装过。1649年12月,新门落成,1692年,悬挂由出身皇族的京都式寺院曼殊院门主良尚亲王手书的匾额「浅草寺」三字。此后250年之间都平安无事,但是到了第二次世界大战時,在1945年3月的东京大空袭時再度烧毁。
  現在的大门,则是由大谷米太郎捐赠重建,他是东京代表性饭店之一、新大谷饭店的创始人。浅草寺山门(本堂正殿前的大门)的內部,乃三层构造组成,上部两层是收藏室,放置寺院的宝贵物品及佛具,其內装置有現代的防火设备结构。  
  
  本堂
  1945年3月的东京大空袭時,属于国宝的旧本堂(由江户幕府第三代将军德川家光建造)整座建筑皆烧毁殆尽。之后,在全国信徒尽心協力下,终于1958年10月重建。现在的本堂为钢筋水泥的建筑,屋頂采用葺本瓦,可说是重新恢復了本堂旧殿的容貌。
  本堂的最大特征在于屋顶,有著明显的倾斜度,与其他的寺院建筑相比,屋脊显得相当高耸。正因为如此鲜明的造型结构,即使从很远的地方,都能一眼就看到寺院建筑清晰的结构特征。
  此外,地面的面积占地大约1,150m2的堂內,分为铺设榻榻米的內殿和以铺设水泥地面的外殿。內殿中央,有安置浅草寺本尊圣观世音菩薩的小佛殿,称为御宮殿。御宮殿內除了有园仁制作于非公开之本尊秘佛相同身姿容貌可供参拜的佛像(每年的12月13日公开)以外,江户幕府的历代将军,或出家的皇族等位高权重者生前带在身上护身的观音像,也都安置在此。御宮殿的左右,分别放置着佛教守护神梵天和帝释天,而內殿裡右后方是不动明王,左后方则是爱染明王,作为本尊的随侍而安置于此。 


  
  五重塔
  五重塔于西元942年,与本堂一同由武將平公雅所建。五重塔与其他的建筑一样,都遭到许多次的祝融之火,並一再重新修建。
  1648年時,在江户幕府第三代将军德川家光手中,五重塔与本堂及宝藏门等同时重建,虽然在1911年被指定为国宝,但卻在第二次世界大战期间,在1945年3月,由于战火而整个寺院都烧毁成灰燼灰烬。战后,浅草寺受到全国各地信徒的支援協力,朝复于本堂、雷门、宝藏门的重建之路。1973年,五重塔也在添置可收纳牌位的空间之附属设备时,再次以新的容貌重建现身。
  

  
  影向堂
  这里放置的是「影向众」(所谓影向,指的是佛陀的身影一時消失后又再度现身)的佛像。所谓「影向众」,是指一群依循着观音菩薩教诲,并跟随于其身旁協助普渡众生的佛,这就是「影向众」。
  現在的影向堂,是为了纪念对浅草寺的繁荣贡献良多的圆仁诞辰1,200年,在西元1994年所建的新建筑。采用的是钢筋水泥的构造,屋顶则是铺设传统的瓦。內殿中央的坛上是圣观音菩薩像,在其左右两旁,则是供奉著由一个或两个天干地支,及守护各天干地支生辰的守护佛像八尊。


    
  药师堂
  在西元1649年,由江户幕府的第三代将军德川家光所建,面积占地约有30m2,这座建筑,是浅草寺境內各堂當中最古老的建筑之一。雖然曾经因为它位于本堂的北侧,而有「北药师」之称,德川家光莅临浅草寺时,因看见药师堂旁架设的小桥,于是取了「桥本药师堂」(桥畔的药师堂)的称呼。此处安置了本尊药师如来像,此外,药师如来为解救众生,为回应许下12个愿望而现身的十二神将,以及制裁死者罪狀的十王也放置在此。


    
  淡岛堂
  在17世纪末到18世纪初,为安置和歌山县的淡岛明神的分身而盖的。現在的淡岛堂,则是将第二次世界大战后当作暂时本堂使用时的旧影向堂移筑改修过的,除了祀奉本尊阿弥陀如来以外,也供奉着淡岛明神、虚空地藏菩薩和养子地藏菩薩。
  在淡岛堂,每年的2月8日都会举行感谢供养不再使用的缝衣针的「针供养」,将折断无法再使用的针插在柔软的豆腐上供养,并感谢缝衣针带来的帮助,吸引许多女性参与法会。
  在淡岛堂对面的右侧,有「针供养」的塔,及「大平和塔」,后者供奉浅草地区于1945年3月的东京大空袭牺牲殉难的3万多人的亡灵,左手边则是供奉由信徒们抄写经书纳于此的「写经供养塔」。  


  
  钱塚地藏堂
  在18世纪前半左右,一位妇人从自家的庭院挖出了装着许多金币的壶罐。但是,一想到要是从此就靠着这些钱币,不再工作,恐怕会坐吃山空而家道中落,因此,她又将金币壶埋回地下。此后,这一家由于这样努力的作风而繁荣起來,于是,那对夫妇就在埋藏该金壶的地方盖了地藏菩薩来膜拜。
  浅草寺的钱塚地藏堂安置的就是该地藏的分身,直到今天,祈求生意繁荣的人到此祭拜,络绎不绝。据说在堂內中央安置六尊地藏像的石塔下,就是金币埋藏的位置。这也是「钱塚」(埋钱塚)名称的由來。每个月逢四的日子(4、14、24)举行法会,尤其是1月、5月、9月的24日,特别举行大型的法会。
  现在的地藏堂是1964年重建,到此堂參拜的信徒以盐和香及蜡烛供奉地藏菩薩。特別是以供奉盐巴为地藏净身,因此地藏王又有「舔盐地藏」的称号。  


  
  二天门
  位于本堂东侧的二天门,在面对着浅草神社的鸟居之右手边位置,由祭祀两位佛教守护神增长天(左侧)及持国天(右侧)而得名。在浅草寺境內的建筑物当中,也是历史最悠久的,乃国家指定的重要文化财产。匾额上「二天门」三字,是由三條宝美这位活跃于19世纪的贵族政治家所题的字。
  本来,二天门是在1618年为了浅草寺境內的神社「东照宮」的门而建,当时供奉的是日本自古以来神道传统的神祇,又称为「矢大神门」。在1642年的火灾时,东照宮完全烧毁,仅存此门和影向堂前面的「石桥」辛免于难。
  到19世纪后半,明治政府采行神道与佛教分离的政策,在此机缘下,将曾是镰仓著名的神社鹤冈八幡宫所有的增长天和持国天安置在此,而改称为「二天门」。这两尊佛像,在第二次世界大战时不幸烧毁,目前所祭祀的佛像,是从宽永寺(位于东京上野公园的德川家菩提寺)的严有院(江户幕府第四代将军德川家纲之墓所)转让而來。  


  
  镇护堂
  这座镇护堂的本尊供奉着保护人们免于火灾、失窃而被称为「狸猫神」的神,深深受到民众的崇敬。
  据传是在西元1883年,当时浅草寺的住持唯我韶舜受到梦境所托,而将栖息于浅草寺境內的狸猫当成传法院的守护神为供奉的开端。目前的镇护堂是建于1913年,每年的3月17日,为感谢这位守护神而举行大规模的祭祀典礼。
  此外,镇护堂的境內,有建于1978年的水子地藏菩薩。水子指的是因流产而亡的胎儿和出生即夭折的婴儿。镇护堂在每个月的24日上午10点为水子举行供养法会。
  
  
  弁天堂    
  弁天堂是建于本堂东南方弁天山这座小土丘上,安置着称为「弁财天」(也称弁天)的女神。由于这尊弁财天的像乃是白发神像,因此又称为「老女弁财天」,是关东地区名声响亮的三弁天之一,与「江岛弁天」(位于神奈川县藤泽市)和「布施弁天」(位于千叶县柏市)齐名。平常并不对外开放,仅在年度几次重要法会举行时,才打开大门,可以一窥其貌。
  弁天堂对面的右前方有座钟楼,该钟楼的钟是依江户幕府的第五代将军德川纲吉于1692年命诸侯牧野成贞重新铸造。在那之后,这座钟楼就以报时的时钟为众所周知,而且还有为之题咏的有名俳句。虽然钟楼在1945年3月的东京大空袭時烧毁,幸好钟本身仍完好保留下來。钟楼后來也在1950年時重新建造过,一直到现在,每天早晨6点也都会有担任的僧侣负责敲钟。  


  
  驹形堂
  根据记载浅草寺历史的《浅草寺缘起》的资料,在西元628年3月18日的清晨,渔师桧前滨成和竹成兩兄弟,在隅田川捕魚时,突然,某种特别的启示传入两兄弟的脑海,进而从水中打捞出一尊观音菩薩像。当时浅草的地方官土师中知得知这个消息后便赶往视察,一见之下,土师中知旋即发现,这座佛像乃是对于佛教徒来说相当重要的圣观世音菩薩像。应此因缘契机,土师中知決心虔信圣观世音菩薩,并将自宅改建为寺,终其一生奉献于观世音菩薩的信仰。
  驹形堂便位于当年圣观世音菩薩像的打捞地点,换言之,即在一座位于浅草寺草创之地的建築。驹形堂的本尊是马头观世音菩薩像,在每个月的19日会对一般人开放,此是可以入堂內参拜。此外,每年的4月19日在此举行大祭。
  与浅草寺境內的建筑物相同,都遭遇过几次祝融之火烧毁,然后又几经重建。最早是面向东,朝隅田川的方向而建,但是到了1742年重建时,则是背對川水,朝西建造。現在的御堂是于2003年11月建造,境內平时都由附近住家随時维持整修,保持得相当好。  


  
  浅草寺(せんそうじ)とは:
  東京都台東区浅草二丁目にある東京都内最古の寺である。山号は金龍山。本尊は聖観音菩薩(しょうかんのんぼさつ)。元は天台宗に属していたが第二次世界大戦後独立し、聖観音宗の総本山となった。観音菩薩を本尊とすることから「浅草観音」あるいは「浅草の観音様」と通称され、広く親しまれている。東京都内では、唯一の坂東三十三箇所観音霊場の札所(13番)である。江戸三十三箇所観音霊場の札所(1番)でもある。
  年中行事:新年大祈禱会|修正会|牛玉加持会|温座秘法陀羅尼会|節分会|針供養会|本尊示現会|仏生会|楊枝浄水加持会|四万六千日|万霊燈籠供養会|菊供養会|写経供養会|納めの観音ご縁日|浅草寺寺舞|

  雷门(风雷神门)
  天慶5年(942)平公雅(たいらのきんまさ)によって創建され、その初めは駒形付近にあった。鎌倉時代以降現在地に移築された際、風神、雷神が初めて奉安されたといわれる。
  当初は、伽藍守護のために、風水害または火災からの除難を目的としてこの二神がまつられたもので、一種の護法善神(ごほうぜんしん)と見るべきものであったが、さらには、風雨順時の天下泰平、五穀豊穣の祈願もこめられるようになったものと推測される。
  現在の門は、慶応元年(1865)12月12日の田原町大火で炎上した門に替わり、昭和35年(1960)、95年ぶりに松下電器創始者松下幸之助氏のご寄進により、復興再建され、浅草寺の総門として威容を誇っている。また、浅草の顔としても全国的に有名。  
  
  宝藏门
  『応永縁起』によると、安房守平公雅(たいらのきんまさ)が武蔵守に補任された天慶5年(942)、その祈願成就の御礼として建立された。
  以来、数度の火災により炎上するも、その都度再建された。
  鎌倉時代から江戸初期にかけては、あまり変化はなかったが、その後、徳川家光により再度の寄進建立が行われ、本堂と仁王門が慶安2年(1649)12月23日落慶、元禄5年(1692)に京都の曼殊院門跡(まんしゅいんもんぜき)良尚法親王ご染筆の「浅草寺」の扁額がかけられた。その後、昭和20年(1945)3月10日の戦災に遭うまで平穏無事だった。
  現在の門は浅草寺の山門として、内部三層のうち上部二層に近代的防災設備を施した収蔵室を設け、浅草寺の什宝物収蔵の宝蔵門として大谷重工業、ホテルニューオータニ創始者の大谷米太郎氏のご寄進により復興再建された。  
  
  本堂
  昭和33年(1958)10月、全国ご信徒のお力添えにより再建された現本堂は、鉄筋コンクリート、本瓦葺であり、昭和20年(1945)3月10日に惜しくも戦災で焼失した旧本堂(国宝、3代将軍徳川家光建立)と同形態である。
  一見して感じる特徴は屋根の勾配が非常に急で、従って棟が他寺院と比較してすこぶる高く、相当遠方からでも望見できる。お堂は南に面し、350坪の堂内は畳敷の内陣、コンクリート敷の外陣とに分けられており、内陣中央にはご本尊聖観世音菩薩を奉安する御宮殿(ごくうでん)がある。御宮殿内には、ご秘仏本尊聖観世音菩薩、慈覚大師作のお前立ご本尊(12月13日お開扉)の他、徳川家康、徳川家光、公遵法親王などの護持仏であった観音像が奉安されている。御宮殿の左右には梵天、帝釈天の二天がまつられ、またご本尊の脇侍(きょうじ?わきじ)としては内陣右奥に不動明王、左奥には愛染(あいぜん)明王がまつられている。

  五重塔
  五重塔とは、お釈迦さまのご遺骨を奉安する仏塔の形式の一つである。
  浅草寺の五重塔は、天慶5年(942)平公雅(たいらのきんまさ)が本堂と共に建立したのを初めとして、その後数度倒壊、炎上に遭ったが、その都度再建された。
  徳川3代将軍家光により本堂?仁王門などと共に建立された国宝五重塔は、太平洋戦争の戦火により、昭和20年(1945)3月10日、他の伽藍とともに惜しくも焼失した。戦後、浅草寺は十方ご信徒各位のご信助を得て、本堂、雷門、宝蔵門と伽藍復興に邁進し、牌殿、書院、他付属施設を備えた新様式の五重塔院を再建するに至った。  
  
  影向堂
  観音さまのお説法やご活躍に不断に協力されている仏さま方を「影向衆(ようごうしゅう)」とお呼びし、これらの仏さまをおまつりするお堂。
  旧影向堂は、現淡島堂で二天門の脇にあった。現在のお堂は、平成6年(1994)、浅草寺中興開山慈覚大師円仁(えんにん)さまのご生誕千二百年を記念して建立された。鉄筋コンクリート寄棟造り、錣(しころ)屋根本瓦葺。内陣須弥壇(しゅみだん)中央に聖観世音菩薩、その左右に生れ年(干支)ごとの守り本尊八躰をまつる。
  堂内には浅草名所(などころ)七福神の内の大黒天をお祀(まつ)りし、また浅草寺の御朱印所も併設されており、ご朱印をお求めになるご信徒の方々も大勢お参りになる。  
  
  药师堂
  慶安2年(1649)、江戸幕府第3代将軍徳川家光(1604~51)の再建による三間四方のお堂は「橋本薬師堂」と呼ばれ、浅草寺に現存する古建築の一つ。はじめ「北薬師」といったが、将軍御成りの時、かたわらに小さな橋が架かっていたことから、「北」よりもこの名前の方がよかろう、と名付けられたといわれる。薬師如来のほか、薬師の十二の大願に応じて現れた分身「十二神将(しんしょう)」、冥界で死者の罪業を裁く十王(じゅうおう)をまつる。  
  
  淡岛堂
  元禄年間(1688~1704)に紀州加太(かだ)の淡島明神を勧請(かんじょう)してお堂が建立された。現在の淡島堂は、戦後の仮本堂であった旧影向堂(ようごうどう)を移築?改修したもので、本尊は阿弥陀如来。淡島明神のほか、虚空蔵菩薩、取子(とりこ)地蔵菩薩をまつる。
  毎年2月8日には「針供養」が営まれる。日ごろ使用して折れた針を柔らかい豆腐に刺して感謝の意を表すもので、多くのご婦人方で賑わう。
  お堂に向って右手に「魂針(こんしん)供養之塔」、浅草地区戦災殉難者3万人余の御霊をまつる「大平和塔」、左手に「写経供養塔」がある。  
  
  钱塚地藏堂
  昭和39年(1964)再建の堂内に、四角い石塔の上に石の六地蔵尊をまつる。
  享保年間(1716~35)摂津国有馬郡の山口某の妻が、庭先で「寛永通宝」がいっぱい入った壺を掘り当てたが、これに頼って働かずにいては家が滅びると思い、土中に埋め戻した。この心掛けによって一家は繁栄したので、その壺の上に地蔵尊をまつったという。銭塚地蔵尊は、そのご分身を勧請(かんじょう)したもので、商売繁昌を祈願する人が多い。石塔の下には「寛永通宝」が埋められているといわれる。これが「銭塚」の名の由来である。毎月「4の日」に法要が営まれ、特に正、5、9月の24日は「正五九」の大法要がある。
  参拝者は塩とお線香、お灯明のローソクを分けてもらってお供えする。特に塩をあげることから「塩なめ地蔵」の名がある。塩でお地蔵さまの御身を清めるのだという。  
  
  二天门
  本堂の東側、浅草神社の鳥居に向って右手に建つ。重要文化財指定。本瓦葺、切妻造り、木造朱塗り八脚門に、増長天(左)?持国天(右)をまつり、「二天門」の扁額は最後の太政大臣、三条実美(さんじょうさねとみ1837~91)筆。
  元和4年(1618)浅草寺境内に造営された「東照宮」の「随身門(ずいじんもん)」として建立された。豊岩間戸命(とよいわまどのみこと)、櫛岩間戸命(くしいわまどのみこと)の二神をまつり、俗に「矢大神門(やだいじんもん)」ともいわれた。
  寛永19年(1642)東照宮は焼失し、その後の再建は許されずに「石橋(しゃっきょう)」(影向堂前)とこの門だけが残った。
  明治時代の神仏分離の際、二神を廃し、鎌倉鶴岡八幡宮の経蔵にあった二天を奉安して「二天門」と改称したが、両像は戦時中、修理先で焼失。現在の二天像は、上野寛永寺の巌有院(第4代将軍徳川家綱)霊廟(れいびょう)より拝領したもの。
  現在の門は、その形式と技法より、慶安2年(1649)頃に建立されたと言われる。
  創建以来、補修、改築が加えられていたが、平成22年(2010)の落慶にあたって創建当初の形式に戻された。

  镇护堂
  通称「お狸(たぬき)さま」と呼ばれ、火防?盗難除けの守護神として信仰が篤い。
  明治16年(1883)浅草寺中興第17世貫首(かんす)唯我韶舜(ゆいがしょうしゅん)大僧正が、夢告により境内に棲む狸を「鎮護大使者」として、伝法院の守護にまつったもので、現在のお堂は、大正2年(1913)の建立。毎年3月17日に「鎮護大使者御祭礼」が行われる。
  また、昭和53年(1978)建立の水子地蔵尊では、毎月24日午前10時に水子供養法要が行われる。  
  
  弁天堂    
  本堂の東南、弁天山と呼ばれる小高い丘に建つお堂におまつりする弁天さまは、白髪のため「老女弁財天」と呼ばれ、「江の島」(神奈川県藤沢市)、「布施」(千葉県柏市)とともに関東三弁天の一つに数えられる。縁日の「巳(み)の日」にお堂の扉を開き、法楽が営まれる。
  お堂に向って右手前の鐘楼の鐘は、元禄5年(1692)第5代将軍徳川綱吉(1646~1709)の命により下総国関宿藩主牧野成貞が金200両を寄進、改鋳されたものである。江戸時代の「時の鐘」の一つで、松尾芭蕉(1644~94)の句「花の雲鐘は上野か浅草か」で有名な鐘である。
  鐘楼は昭和20年(1945)3月の東京大空襲で焼失し、昭和25年(1950)に再建されたものであるが、鐘は幸いにも無事に残り、現在でも毎朝6時に役僧によってつき鳴らされる。

  驹形堂
  『浅草寺縁起』によると、推古天皇36年(628)3月18日の早朝、檜前浜成(ひのくまのはまなり)?竹成(たけなり)の兄弟が江戸浦(現隅田川)にて漁撈中、1躰の仏像を感得した。郷司土師中知(はじのなかとも)はこれを拝して、聖観世音菩薩さまのご尊像と知り、自ら出家、屋敷を寺に改めて深く帰依したと伝えられる。
  駒形堂は、観音さまが上陸された、浅草寺の草創ゆかりの地に建つお堂で、本尊は馬頭観世音菩薩。別名「こまんどう」とも呼ばれる。毎月19日にお開扉され、参拝できる。午前10時より法楽があり、4月19日は大祭。
  はじめは川に面して東向きに建てられたが、たびたび焼失の憂き目にあった。寛保2年(1742)の再建から、川を背にして西向きに建てられるようになった。現在のお堂は平成15年(2003)11月に建立されたもので、境内は日ごろ、地元町会の方々の手で整備されている。